伝統の三河花火(1)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


 
  はじめに

 花火は、夏の夜の美しい風物詩である。

♪どんとなった 花火だきれいだな
空いっぱいに ひろがった
しだれやなぎが ひろがった♪
 
と歌われ、打ち上げ花火や仕掛け花火を見る楽しさは、いつまでも心に
残る。線香花火など「おもちゃ」花火を出した楽しい思いは消えることは
ない。
 花火は岡崎の伝統的な産業であり、三河花火の中心地である。
岡崎地方の花火の歴史と花火の見方について、綴ってみたい。

  花火のはじまり

 徳川家康が慶長十八年(西暦1613年)八月に、駿府城でイギリスの
使者と花火を見物している。花火はこの頃から、だんだんと人々の楽しむ
ものとなった。
 享保十八年(1733)五月には、江戸大川(隅田川)の川開きに花火
が打ち上げられ、今日に続いている。戦国の世から平和な時代に移り、そ
れまで戦いに重要だった火術・砲術から、その知識・技術によって花火を
製造するようになった。
 天文十二年(1543)ポルトガル人によっ鉄砲が伝えられ、戦国大名
たちの求めに応じて、鉄砲の製法や火薬の研究が進められる。
 弘冶年間(1555〜57)には、九州、畿内、において鉄砲の製造が
始められた。各地の大名たちが使用し、鉄砲の製造は急速に広まった。
 天正三年(1575)の長篠の戦いで、織田・徳川の連合軍は、三千挺
の鉄砲で武田軍を打ち破り、新兵器の威力は知れ渡った。
弾を飛ばす火薬の製法が永禄二年(1559)には書かれている。

   硝石(硝酸カリウム)七割五分
   硫黄 一割五分
   木炭 一割
    で混ぜる

とある。
これは、黒色火薬といわれるものであった。

 硝石も慶長年間(1595〜1614)の中頃から、和製の硝石に関する
記録が現れて来る。筒に火薬を込めて火急の連絡や合図に煙を上げる「烽火
(のろし)」、矢の先に火薬の筒をつけた「火矢(ひや)」(火箭=かぜん)
の製造も火術家・砲術家の重要な仕事であった。「灯火」「火矢」が花火の
ルーツである。

 

 

 


 

         戻る