伝統の三河花火(10)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


      戦後の花火(1) 

 −菅生祭と観光花火大会−
 昭和二十年(1945)八月十五日、日本は無条件降伏
を受け入れ、第二次世界大戦は終結した。
 岡崎市は、そのわすか前の同年七月二十日、B29八十
機による空襲で、市街地の中心部は焦土と化した。市民は
戦災復興に立ち上がり、昭和二十一年には八幡町に中央マ
ーケット、康生町の一角にセントラルアーケードなどがつ
くられ、新しい街づくりが始まる。
 菅生神社宮司の斎藤光久さんによれば、同年の七月十九
日の菅主神社祭札には五十発の打ち上げ花火を出したとの
こと。松井弘、新実清一両氏の支援によるものだと話され
た。
 菅生祭奉納花火は、昭和二十二年には商工会議所の協力
により、旧に復してきた。当時は進駐軍の許可が必要で、
蒲郡観光ホテル(現在、蒲郡プリンスホテル)を宿舎とす
る進駐軍の幹部を招いて開かれる。
 一方、この花火大会とは別に、昭和二十三年八月「岡崎
観光夏まつり」の一環として、全国煙火競技会を折り込ん
だ「観光花火大会」が開かれ、以来毎年開催されている。
 昭和25年には、商工会議所の呼びかけで、七月十五日
(土曜日)の夏まつり花火大会と同一日に、菅生祭奉納花
火大会を行った。鉾舟を「明神の疲し」(名鉄鉄橋の辺り)
から殿橋、神殿前まで、お囃子(はやし)もにぎやかに、
手筒、大筒、金魚花火を出しながら上らせる。
 しかし、昭わ二十六年からは、それぞれ別々に開き、岡
崎観光夏まつり花火大会と菅生神社奉納花火が合同で開催
されるようになったのは、同王十四年からである。
 昭和三十年六月に岡崎市観光協会と氏子等で合同開催に
ついて話し合っているが、相互の了承を得るまでに四年の
歳月が流れている。
 開催日が八月の第一土曜日となったのは、昭和四十年(
1965)以後である。菅生祭の花火は鉾舟舟と金魚花火
手筒、乱玉が特色で、観光花火大会の打ち上げ花火や仕掛
け花火とまって、全国に有名な花火大会となっている。
 花火の打ち上げが意外に早く許可されている。外国にも
花火があり、アメリカ人も花火好きであったようだ。
 打ち上げ花火の名手であった加藤喜平の長男(博之)さ
んは、当時を思い出して、
「アメリカ人も花火が好きですよ。
私がシペリアから復員してからですが、昭和二十三、四年
頃、蒲郡観光ホテルの進駐軍に頼まれて、在庫の火薬で花
火をつくって打ち上けました。しばらくして、金沢の白雲
楼から花火を打ち上げてほしいと頼まれました。蒲郡にた
進駐軍の将校が三河の花火が素晴らしいから、もう一度見
たいと言うんです。長い時間をかけて持っていきました。」
 と話された。
 宮司の斎藤さんは
「当時、寄付をお願いしても集まりませんでした。しかし
花火の奉納だと言うと、喜んで出されましたよ」
 と言われる。
 日本人も外国人も、同じように花火好きであるようだ。

 

 

 


 

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