伝統の三河花火(2)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


 
  三河花火の越源 

 岡崎地方を中心とした花火の始原を訪ねてみよう。
丹後宮津城主の細川家鉄砲指南・稲富直家は同家から追放されたが、
家康は彼の技術や才能を惜しみ、鉄砲方に召し抱えた。しかし、技術
上の口論から同僚を斬り、尾張徳川家にお預けとなった。尾張藩では、
直家を指南役に用い、鉄砲や火薬の製造に当たらせた。直家は製法に
工夫、改良を加え「稲富流」と称された。 直家は出家し「一夢斉」
と名乗ったので、「一夢流」ともいわれる。
今の足助町岩神(やがみ)に住む沢田四郎右衛門が稲富流を学び、西
三河に伝えた。
 慶長十七年(1612)に足助八幡杜に奉納された「扇的打図(お
おぎのまとうちす)」の扁額に、

両国の川開き   尾州稲留流先生
   当国岩神村
   沢田四郎右衛門尉
   行年七拾八歳

とある。
「尾州稲富流先生」とは稲富直家のことで、「稲留」とも書かれ「イ
ナドメ」と言ったようである。稲富(稲留)流火術は、彼によって西
三河へ伝えられた。三河花火に「稲留流」の名が残っている。火術・
砲術家は一流一派を興し、門弟に秘術として伝えて行った。
 太平な時代になって鉄砲の重要性が弱まったが、幕府は鉄砲・火薬の
製造には厳しく制約し、火術・砲術の秘伝、秘密性は、明治に至るま
で続いた。武士である火術・砲術家は、軍事用の「烽火」の技術の向
上に時を過ごすこととなる。いろいろな色の煙、布切れを打ち上げて
合図や通信するといった方法を完成している。
こうした中で庶民に伝わった火術が花火製造、花火師を誕生させる。
 慶安元年(1648)に江戸市中で花火を出すことを禁止されている。
この頃には、江戸の町人たちが盛んに花火を出していたことが知られる。
線香花火やねすみ花火が売られており、「大からくり」「流星」などの
名が見られる。
 万治二年(1659)(筒)に、鍵屋弥兵衛が葦の管に火薬を練って
丸めた小さな星を入れて売り出した。鍵屋は享保二年(1717)水神
祭の献上花火を打ち上げた。そして大型の花火がつくられ、見る花火が
現れる。
 三河の地でも、祭礼の余興に、しばしば花火が出されている。豊橋の
「吉田神社略記」によると、永禄三年(1560)に流星や手筒が出さ
れ、仕掛け花火や手筒が元禄(1688〜1703)の頃から大型化し
ている。
岡崎の地も同様に祭や行事に花火を出したが、明和七年(1770)城
主が交替し、石見・浜田から本多忠肅(ただとし)が入城す際、費用節
約のため領内に花火を出すことを禁じている。これは、この頃盛んに
花火を出していた証拠でもある。
寛政元年(1789)には、五寸、七寸、一尺の花火が菅生川原で打ち
上げられ、花火師たちが技を競っている。


 

 

 


 

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