伝統の三河花火(3)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


 
    菅生(すごう)祭と金魚花火

 菅生天王宮は徳川家康に深く信仰され、永禄九年
(1566)社殿を再建する。以来、歴代の岡崎城
主である本多伊勢守家(前本多)、水野家、松平家
本多中務大輪家(後本多)から崇敬され、社殿の改
修などがなされてきた。
 明治元年(1868)菅生神社と称される。例祭
の七月十九日の夜、菅生川に数千の紅提灯を点じた
三層の鉾舟(ほこぶね)を数隻浮かペ、舟中から手
筒花火を打ち上げ、また水中には「金魚花火」を放
った。
 大正十一年(1992)七月十九日の例祭には鉾
舟が九艘出された。
 江戸時代は舟運による輸送が盛んで、殿橋上流に
桜の馬場土場、満性土場があり、大量の荷物が集散
し、六地蔵、唐沢、菅生辺りは活気に溢れていた。
六地蔵には芝居小屋もあった。
 菅生川の南北の往来は殿橋と福島の渡、菅生の渡、
吹矢の渡であった。鉾舟や見物用の小舟を出す場所
は、このように幾らでもあった。
 こうした形で行われるようになったのは、文化・
文政(1804〜29)年の頃からといわれている。

 この天王祭は明治以後、菅生祭といわれる。
菅生祭の花火の特色は、水の上の花火が遊泳す
る「金魚花火」である。この金魚花火は、乾燥
した葦の茎を、一方節を残して十五センチくら
いで切り、この筒に火薬を詰めるのだが、水上
で浮くように、節の方に麦わらを二、三センチ
に切って入れ、綿くずを少し詰めて火薬を入れ
る。この花火の管(筒)を十本くらい束ねて紙
で巻く。
これに火をつけて水に放つ。火薬の噴出力で水
上を泳ぐ。そして、紙は切れて四方に金魚は泳
いで行くのである。
 花火師の加藤博之さん(加藤煙火)は、「今では
紙管に発泡スチロールを入れて浮きにしている」と
話される。そして、「当時は黒色火薬だったから、
火の粉の色、木炭の粉の燃え色だが、今の金魚花火
は色火薬を配合し、いろいろな色の金魚が出せます
よ」と、にっこりされる。
 文化・文政の頃には打ち上げ、仕掛け、手筒、金
魚などの花火がつくられ、菅生川原で、しばしば自
慢の花火が打ち上げられている。
 文政元年(1818)に、岡崎藩主上覧花火が催
され、城下各町や近在の村々が技を競った。

 

 

 


 

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