伝統の三河花火(6)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


  近代の花火師たち

 明治四年(1871)頃「研せん」と呼ばれた刀の研ぎ師が
祐金に移り住む。花火に精通し、菅生祭の金魚花火を改良して
「祐金の錦魚」と賞された。
 明治二十年(1887)頃、同町に住む鈴木徳兵衛が「錦魚」
に塩素酸カリウムを用い、鮮光輝く「銀魚」をつくり上げている。
 明治二十三年(1890)天満宮が現在地(甲山中学校の西)
に遷宮された時、花火を打ち上げた。氏子に伝馬町に住む(荻
野流の花火師・近藤光四郎・藤四郎父子、門前町の稲垣兵次郎、
伊賀町の稲留流・磯谷謗O郎らが協力して、手筒、打ち上げ花
火を奉納する。これを起源に、伝馬天神の花火は管生祭の花火
とともに有名となった。
 近藤藤四郎は花火の技法に優れ、大正三年(1914)に東京
上野で開かれた大博覧会へ代表して三河花火を出品している。
 岡崎地方に広まっていた稲留流花火の伝承者、西尾の加藤小兵
は信道の得意とした矢(流星)の技術に長じていたが、仙賀佐十
に師事し、研究を重ね、一派を築いた。地元の古刹・最明寺の名
を受け、明治二十年(1887)「最明流」と称した。
 外輪と内輪の二重1に開く打ち上げ花火を完成する。流星は
落下する矢が危険で、明治になって打ち上げが禁止された。
 小兵の長男・加藤長之助は最明流二代目を継いだ。火薬類の
取り扱いが許可制となり、彼は「製造主任」の第一号登録者と
なる。打ち上げ花火の名人といわれた。

 大正初期に結成された西三河煙火組合、東三河を含める三河
煙火組合が編成され、長之助は組合長に推された。大正十二年
(1923)に愛知県煙火組合が発足すると、初代組合長にも
なっている。
 長之助の弟・加藤喜平は、兄に劣らない技術を持ち、昭和元
(1926)蒲郡で創業する。喜平は打ち上げ花火のの名手で
あったが、玩具花火の製造にも力を注いだ。

  明治の中期、

   東の仙賀
   西の島清

 といわれた。
 武田流火術を受け継ぐ島清力之助は長崎で西洋花火を学び、明
治初年に矢作で一尺の大筒を打ち上げたといわれる。島清は弟子
に無料で原料を分け与え、優れた花火師を育成した。
 武田流は甲斐の武田氏の火術で、古く戦国の世に三河に伝えら
れた。
 島清の流れを受け継ぐ花火師に、外山愛治郎、太田松右衛門・
続吉父子((株)太田煙火製造所)、稲垣金太郎・欣弥父子((株)
稲金花火店)「以上岡崎」、成瀬晋吉「安城」中野重太郎「知立」
らが挙げられる。

   

 

 


 

         戻る