伝統の三河花火(7)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


 
    近代の花火師たち 2

 (つづき)
 明治四十二年(1910)名古屋の共進会に長野市から尺八寸の
打ち上げ花火の大玉が出品されたが、当時は尺玉を打ち上げるのが
精々で、打ち上げを断られた。出品者に外山愛治郎は頼まれ、両町
の徳王神社で打ち上げる。一般に公開されたので、多くの見物人が
押し寄せたという。島清力之助に学んだ羽根町に住む稲垣金太郎は
硝石の製造に力を注ぎ、長男・欣弥が後を受け継ぐ。明治四十三年
には近藤藤四郎からも花火の技術を習い、優れた花火用の薬剤を製
造するとともに花火の研究進め、色の変化する「紅緑金魚花火」の
製造に成功する。
 矢作に住む太田続吉は父の技術受け継ぐとともに、台湾で中国花
火の製法を学んだ。太田は成瀬晋吉らと納涼用の打ち上げ花火や玩
具花火を製造し、全国各地に販路を拓いて、三河花火の大正期の隆
盛を築く。
 太田続吉がつくり出した玩具花火「乱玉」は子供たちに大変喜ば
れる。初め竹筒に火薬と星を詰めて空中に打ち上げた。後に筒は紙
筒となる。星を三つ詰めれば三連発、五つ詰めれば五連発で、「乱
玉」は玩具花火のメーン商品となった。
 今日でもつくられており、「ミサイル二十五連発」「横綱三十連
発」といった名がつけられて売られている。 三連発、五連発では
筒を手に握って打ち上げたが、連発数が多くなり、地面へ垂直に固
定して出すようになった。
 中野重太郎は成瀬を助け、納涼花火の製造や仕掛け花火に工夫を
凝らした。
 この頃、塩剥(塩素酸カリウム)に鶏冠石を混ぜて、素晴らしい
爆発音を出した。少量で抜群の発音効果があったが爆発しやすく、
非常に危険であった。赤い粉末で「赤爆」といわれたが、今ではあ
まり使われなくなった。
 明治中期から大正期は花火の発展期で、花火史に名を残す名人花
火師が続出した。今日見られる美しく、様々に変化する打ち上げ花
火のほとんが、大正末期には出揃っている。
 しかし、大切な命を失った人々も少なくなかった。細川の長坂専
次郎は東京にまで行って花火の研究を進め「専海流」を立てたが明
治十九年(1886)爆発で他界している。 既に述ぺたが、仙賀
佐十もその一人である。


 

 

 


 

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